2009年05月26日
漢城百済文化祭
9月以降にソウルの旅を予定している方~
9月26日から28日まで「漢城百済
文化祭」というのが開催されますよ~
http://hanseong.songpa.go.kr/
どうせ行くならそういうイベントに
合わせて行くのも楽しいかもしれません。
「漢城百済(ハンソンベッチェ)」は、
「朱蒙」でソソノが二人の息子を連れて
高句麗を出て行った後に、弟のオンジョが
作った国のことです。
百済の都は扶余(プヨ)とされていますが、
漢城百済はソウルの松坡地域。今の
ロッテワールド周辺だったようです。
以下、お祭りのサイトから引用します。
松坡地域が国の首都になったのは、2千年前に
百済の始祖、温祚王が今日のソウル漢江流域に
都を定めたBC5年である。
高句麗を建国した朱蒙の息子、温祚と沸流の
二人の兄弟は建国のために捧げた全ての功労を
後にして南下し、今のソウル北部地域に至る。
温祚(弟)は漢江北側の慰禮城に定着し、沸流(兄)は
彌鄒忽(今の仁川)に基盤を置いた。
温祚はその住民たちを受入れて温祚14年(BC5年)に
南側のここ、松坡地域に遷都して古代国家としての
基盤を築き、燦爛たる文化を花咲かせた。
温祚王から文周王元年(475年 都)まで、漢城から熊津
(今の公州)に遷都するまでの493年間(BC18~AD475年)を
漢城百済時代と言う。
古い地図の上のほうをよく見ると、ソウルの
地図ですね。中央を流れている川が漢江(ハンガン)です。
Posted by まるこ♪ at 17:06│Comments(1)
│イベント
この記事へのコメント
百済というのは、文化人や官僚として多くの中国人がおり、王族としては高句麗人すなわち中国化した貊族がいた。王室には多く倭
王の係累がおり、宮中には倭人が多かった。また、駐留していた武人にも倭人系が少なくなかった。捕虜や交易の民としては弁韓や辰韓の民もいたんだろうが、肝心の馬韓人の影が薄い。
当時の百済には色々な人種が存在してたんですよね。
王の係累がおり、宮中には倭人が多かった。また、駐留していた武人にも倭人系が少なくなかった。捕虜や交易の民としては弁韓や辰韓の民もいたんだろうが、肝心の馬韓人の影が薄い。
当時の百済には色々な人種が存在してたんですよね。
Posted by のんの at 2009年05月31日 12:23