2010年01月10日
播磨の無頼漢が鞆に!

昨日は、鞆で通信使の勉強会が
ありました。
江戸時代に12回やってきた通信使が
残した記録の中で「鞆」にまつわる
話を意見交換をしながら読み進めて
います。
昨日は、1617年に来た第2次通信使の
記録を読みました。
そこにあった興味深い記述。
播磨はもともと家康の娘を妻にした
三佐衛門の管轄だったが、その孫の
新太郎が殿になったとき、まだ幼少
だったために、播磨の複雑な政治は
難しいだろうと10万石少ない鳥取藩に
移された。
その時、浪人となった家来が鞆に
住み着いているが、言葉はたいそう悪く、
信じがたいので、近づいてはいけない。
調べてみると、鳥取に移されたのは
池田輝政の孫、光政。当時7歳でした。
禄が減ったため、下人を解雇したようです。
急にリストラを余儀なくされた下人は
荒れた生活をしていたようですね。
「播州弁はきたない」ということを
時々耳にしますが、江戸時代もそう
思われていたようです(苦笑)